【幼少の頃】
三重県生まれ。一人娘で両親の愛情を一身に受けて育つ。
気が付いたときには、家にアップライトピアノがあった。
専業主婦の母は、子どもの時にピアノを習っていて歌も上手。
企業戦士だった今は亡き父は、どちらかというと邦楽が好きで、日本舞踊を習っていたこともあり、母も結婚後、三味線などを習っていたようだ。
だが、娘の私にはなぜかピアノを習わそうと思ったようだ。
ピアノは4歳の時、一緒に歌を歌ったりして音楽を楽しませてくれる優しい先生について習い始める。
数か月で引っ越しをし、次は地元でも有名な厳しい先生に師事。
「お指を一本ずつしっかり上げて~」と教えられたので、ハイフィンガ-奏法だったのだと思う。
先生がかわってばかりでまだろくに弾けないのに、母の手作りドレスを着て盛大な発表会で演奏。
~メト-ドロ-ズのバラ色のメヌエット・ああ可愛い~を弾く。
母も子供の時にピアノを習っていたので、家庭練習の始まりの合図は母が弾くクレメンティのソナチネだった。
幼少から小学校始めまでは完璧主義の母がピッタリ私の横につき練習をみてくれていた。
家庭にクラシック音楽は流れていなかったように思うが、童謡のレコードがあり、
繰り返し繰り返し聴いていた。
【小学校時代】
父の転勤にともない3つの小学校に通うが、そのたびに新しい先生に変わりながらもピアノはずっと続けていた。
小学校1年から3年までついた先生も、小3から中1までついた先生もきちんと丁寧に教えてくださる先生だったと思う。
母の目が光っていたので、割と練習は出来ていた方なのだが、発表会など本番には緊張するようになった。
小学校4年生頃住んでいた兵庫県芦屋市の小学校の音楽の時間に合唱でハーモニーを作るすばらしさに目覚める。
ピアノの先生になりたいなと漠然と思っていたが、小学校の先生もいいなと憧れるようになった。
転校ばかりしていて兄弟もいなかったけれど、すぐに友だちができて傍にいてくれ、寂しいと思ったことはなかった。
遊ぶ約束をし、学校から帰って急いで練習して校庭での外遊びに駆けつけると、「遅かったね~」と言われたことが記憶に残っている。
でも一人っ子のせいか、一人でいる事も得意で、家で本を読んだり、空想にふけったりするのも好きな子どもだった。
ピアノの発表会では、ソロの曲以外にも、数人選ばれて、先生のピアノ伴奏でモーツァルトのコンチェルトなどを弾くようになった。
【中学生時代】
芦屋の中学1年の時は、教本がみんなより進んでいたので音楽の授業で先生の代わりにピアノ伴奏をしたり、合唱祭でも伴奏を務めた。
中学2年の時、また父の転勤。
この時初めて転校したくないと泣いて母に訴えた。
でも、一人で残るわけにもいかず、三重県鈴鹿市へ。
この頃クラシック音楽のレコード全集を買ってもらい、オーケストラの曲やピアノ曲を夢中になって聴いた。
でも、クラシック以外の流行りの歌なども好きだった。
今度の新しいピアノの先生は、愛知県立芸大卒の若い先生だったが日曜日に1時間以上かけてレッスンに通った。
聴音や楽典の勉強も少しずつ始める。
中学3年の時、FM愛知の児玉邦夫先生の公開レッスンに出演。
~バッハのイタリア協奏曲~を演奏。
公開レッスンの前に少しレッスンしていただいた有名な先生は、それまで師事した先生の中では一番怖かった。
手を叩かれたり、バッハの曲だったので、声部の出し方についてなど「全然ダメ」なようなことをを声高に言われて、悔しくてレッスン室を出てからこっそり泣きながら帰った。
高校受験は、父のオーストラリア赴任に母も同行する予定だったこともあり、母は関西の寮のある女子高を勧めてくれたが、寮では自由にピアノの練習ができないということで地元の県立高校を受験することになった。
【高校生時代】
中学と同様に合唱部に入る。ここでも伴奏者を務め、NHK合唱コンクールに参加した。
高2の時、祖母の家にいた私は両親を追いかける形でオーストラリア、ニューサウスウェールズ州のオレンジ市へ。そこで約1年滞在。
High Schoolのコンサートではベートーベンのピアノソナタなどを演奏した。
そこで師事した先生は、陽気な先生で日本で勉強していたバッハの平均律・エチュード・ソナタなども続けながら、珍しい近現代の曲も弾かせてもらえて楽しかった。
その後、両親より先に日本に帰り、進路を考えた時、教育学部に進みたい気持ちもあった。
でも、やはりピアノの勉強がしたいと思い、高3から音大の先生に師事してピアノ科を目指すことになる。
試験曲は~ベートーベンのソナタ(ワルトシュタイン)他。
【大学生】
名古屋音楽大学 器楽学科ピアノ専修に入学。
音楽漬けの環境に憧れて音大に行かせてもらったのだから、
もっとがむしゃらに勉強すればよかったと今なら思うが、入ったことで気が抜けてしまったようだ。
でも、エレクトーンを始めたり、声楽の人の伴奏をしたり、いろいろしながらも、試験はそつなくこなしていた。
3年次の学内演奏ではもともと本番には強くないのだが大変不本意な演奏になってしまい落ち込む。
4年次の卒業演奏では慎重に準備を重ね冷静に弾く事が出来た。
~シューマンのピアノソナタト短調~
ピアノ指導は、自宅やヤマハの楽器店で大学3年ころから開始。
初めての生徒さんは、お隣のお子さんで、それから次第に増えていった。
その中の生徒さんの一人は、後に愛知県立芸術大学に進学され、首席で卒業された。
【社会人になって】
卒業後は午前中、県立高校の非常勤講師として教え、午後はヤマハ系列の音楽教室で個人ピアノ・エレクトーンと児童コーラスの指導。
在学中から教えていた自宅レッスンの生徒も更に増え,40人くらい教えていた。
高校はやんちゃな男子ばかりの学校で、はじめは私のいうことなど聞かず勝手な事をしていたが
(後でわかったことだが、前任の先生は授業が成り立たず鬱になり任期途中で退職していた)
1年が終わる頃にはピアノ伴奏をする私を囲んでの音楽室に響き渡る大合唱は今も忘れられない。
【結婚】
25歳、夫と出会い縁を感じ、結婚をして広島へ。
夫の仕事の関係でしばらくはアップライトピアノとエレクトーンを抱え県内を転居後、現在の家にピアノ室を作ってグランドピアノも実家から引き取り、また落ち着いて教え始める。
【流産】
26歳初めての妊娠
でも、悲しい結果に
その後なかなか授からず、やっと28歳の時に妊娠。
それも悲しい結果に。
もう私は母親になれないのかと思い、目の前が真っ暗になった。
でも、それから半年して、三度目の正直とはよくいったもので妊娠。
今度こそ、わが子に会うんだ!と慎重に生活。
でも、また心配な兆候が出てしばらく絶対安静に。
ここまで大変だったせいか、出産は安産!
「はじめまして」とわが子の小さな手に触れ、その暖かさに感動した。
その後、現在の地に転居。
無事に次男も生まれ、4人家族になった。
【無我夢中の子育て期】
夫は、子育てが趣味と言えるほど、子どもが大好きな人。
忙しい責任ある仕事の中、子育てにも協力的だった。
二人で子供たちを無我夢中で育てていく過程はとても楽しく、私は二人の子どもが可愛くてたまらなく
一日一日愛おしむように育てた。
それぞれ個性のある一筋縄ではいかない二人の息子たち・・・
幼稚園は、のびのびと型にはめず、興味を持ったことを心ゆくまでさせてくれるモンテッソーリの幼稚園を選んだ。
それ以外は、特に早期教育などはしなかったが、ただ絵本の読み聞かせは赤ちゃんの頃からたくさんした。
小学校にあがる前には、児童書などを自分で読むことが大好きになり、小学校時代には、家にある本だけでは足らず、図書館に通って借りてきては膨大な数の本を読んでいた。
休みの日は、家族4人自然の中で一緒になって遊び、五感を刺激する体験が多くできるように考えた。
そして、小さな時から1つの人格として扱い、社会常識的なことは身につけさせつつも、自主性を尊重して育ててきたつもりだ。
大人になるまでいろいろなことがあったが、子供と真正面から向き合い、お互いに成長することができた充実した日々だった。
音楽の習い事としては、長男も次男も4歳前後からバイオリンを始めてそれぞれ高校、中学まで続け、長男は大学のオ-ケストラにも所属。
発表会では、私のピアノ伴奏でバイオリンを弾き、それ自体はとても幸せな時間だったのだが、そこに至る練習過程では親子となると、なかなか大変だったように記憶している。
長男はピアノは小学校高学年でやめてしまったが、中学では合唱祭のピアノ伴奏も務めたりしていた。
現在の地での初めての生徒さんは、近所の中学2年生の女の子。
他県の大学に進学するまで、通われた。
それから、近所の幼稚園、小学校のお子さん、そのお母さん方が次々と入会される。
私自身は、子供たちが幼稚園や学校へ行くようになるのを待ち、教材研究のためのセミナ-に参加したり、またリトミック研究センターの上級認定資格を取得したのもこの時期だった。
また、子供の通う幼稚園の人形劇でピアノを担当をしたり、幼稚園の行事で歌の伴奏、バイオリンの発表会でもいろいろな曲の伴奏をさせていただいたりしていた。
【受験】
教室では中学受験した生徒さんも多く、レッスンをほとんどお休みすることなく、秋の発表会にも出演する生徒さんもいたが、みんな合格。
受験期でもピアノを続けていた方が、メンタル的にも安定して良い結果につながるように思う。
進学してからは忙しくなって通えなくなってしまった方も多いが、
その後、京都大学、慶應、早稲田、広島大学(歯学部、医学部)愛媛大学、薬科大学など志望校に合格されている。
教室の生徒さんとともに育った長男と次男も、バイオリンのレッスンをお休みすることなく中学受験をし、その後第一志望の国立大学に進学した。
二人の息子たちは、社会人となり自立し、東京在住。
年に何度か会って(現在はオンラインで)、大人になった彼らと対等に話せるのが楽しみである。
【自分の勉強】
私は指はまわるけど、もっと豊かな音楽表現ができないものかと思っていたところ、2002年から、響きのある美しい音色を追求する「脱力奏法」を指導されていた故藤澤克江氏の主催する藤澤会に参加させていただいた。藤澤先生は、私が今まで師事した先生の中でも厳しい先生だったが、脱力して美しく響く音を引き出していただいたことで、ピアノを弾く喜びが何倍にも広がった。
以後10年以上続けており、真摯にピアノに向き合う仲間たちに出会えたことも財産であり、モチベーションに繋がっている。
またそこからのご縁で2007年からドイツのカフェンブルク城、イタリアのモンテプルチアーノにおいてドイツ国立カールスルーエ音楽大学教授ペーターアイヒャ氏のマスタークラス受講。
2010年から大阪、広島でペーターアイヒャ氏のマスタークラス開催の企画と運営に携わり、自らも受講。
2019年 広島にてウィーン国立音楽大学教授イヴ・アンリ氏のマスタークラス受講
古楽器(フォルテピアノ、チェンバロ)時代の作曲家(バッハ、クープラン、ラモー、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンなど)の曲を現代ピアノでいかに弾くかということを学ぶためにチェンバロ奏者の岩淵恵美子氏に指導を受けている。
【今後のピアノ教室】
この度のコロナ渦で、ピアノ教室をお休みにしなくてはいけないかとなった時、楽しみにして教室に通って下さっている生徒さんたちの学びを止めてはいけない、
こんなときだからこそ、音楽が必要なんだと強く思った。
そして、気がついたら憑かれたように、ネットでオンラインレッスンする方法を調べていた。
そして、オンラインで繋がり、最初は少し緊張気味のみんなの表情がほぐれ、笑顔になっていくのを見た時、
「あ~私はこの仕事が好きなんだ、続けていて本当によかった」と改めて思った。
今はまたリアルレッスンができる喜びをかみしめているが、いつまたオンラインレッスンをしなくてはならない時がきても、音楽の楽しさを伝えていくことができると思う。
音楽は生涯の友であるとともに、ピアノは私にとっては一生勉強の対象であると思っている。
自分自身も勉強を続けながらピアノ演奏の奥深さを伝えていきたい。
そして、ピアノの先生というのは、生徒さんと一対一で、10年以上かかわることもあり、成長を見守らせていただける幸せな仕事だと思っている。
ご縁があってうちに来ていただいた生徒さんの豊かな成長のためにピアノを通じ、サポートさせていただければと願っている。
【育脳ピアノレッスンの教科書認定教室】
【ピアノこころの保健室登録教室】